ご飯を食べずに我慢していれば、「1年で100万円は貯められたかも」なんて後悔する人は、きっといませんよね。食事は生きていくために必要なものだからです。
私は、推し活もそれに少し似ていると思っています。単なる娯楽や贅沢ではなく、気づけば衣食住に近い存在として、生活の中に自然に組み込まれている。だからこそ、推しに使った時間やお金を「無駄だった」と切り捨てられないし、むしろ「出会えてよかった」と思えるのだと思うんです。
実際、NHKが特集した「推し活依存」が話題になったように、推し活は経済面や精神面に影響を与えるほど、私たちの生活と深く結びついています。推し活はもはや一時的な趣味ではなく、日常のモチベーションになり、人とのつながりや心の支えになる存在。そう実感している人が、今とても増えているのではないでしょうか。
推しとの出会いは、自分の内側と重なった瞬間に起きている
推しに惹かれる理由って、意外とはっきり言葉にできないものですよね。
何万人、何億人と人がいる中で、たまたま存在を知って、何気なく触れた瞬間に心が動いて、気づけば応援している。理屈で見れば偶然が重なっただけなのに、あとから振り返ると不思議と腑に落ちる瞬間があります。
「あの時の自分だから、この人に出会ったんだろうな」と思わされる出来事が、必ずひとつはある。
私たちはそれをまとめて「好み」と呼びがちですが、実際にはその時の自分の気持ちや状況、足りなかったものと、出会った相手の存在がぴたりと重なった結果なんだと思います。
推しとの出会いもまったく同じで、その瞬間の自分に必要だったからこそ、あれほど深く心に残り、簡単には忘れられない存在になっていく。
しんどい時に、ふと救われた言葉。
頑張れない日に、静かに背中を押してくれた姿。
「今日だけはなんとか生きよう」と思えた理由が、推しだった日。
そうした経験を重ねるほど、推しとの出会いは単なる偶然では説明しきれないものになっていきます。
推しがいるだけで、人生の景色は変わる
推しができると、日常の見え方は少しずつ変わっていきます。
ただ通り過ぎていただけの季節が、カムバックやイベントの時期として記憶されるようになったり、
疲れて帰る電車の時間が、配信を待つための楽しみなひとときになったり。
今後の予定も、「推しに会えるかどうか」が生きる楽しみの一つになる。
それは依存ではなく、毎日にちゃんとした意味や熱が宿った証なんだと思います。
そして、推し活の中で積み重なっていくのは、推し本人との思い出だけではありません。
推し活をしなければ出会えなかった友達、部活のように投票に燃えた時間、炎上に心を痛めて涙を流した日。
そうした一つひとつの出来事が、あとから振り返ると、まるで青春の思い出のような記憶として残っていく。
恋愛のように距離が縮まるわけでも、直接言葉を交わせるわけでもない。
それでも、確かに心は支えられているし、今日を乗り越える力をもらっている。
推しの存在は、人生の中で安心して立ち戻れる大切な拠りどころになっているのだと思います。
推し活は娯楽じゃなく、衣食住に近いもの
推しの存在は、単に「好き」という感情だけでは語りきれないものだと思います。
気持ちが沈んだ日にふっと笑顔にさせてくれたり、立ち止まっていた自分にもう一度頑張る理由をくれたり。うまくいかない現実の中でも、「この人がいるから、今日は乗り切ろう」と思わせてくれる瞬間がある。
だから推し活は、暇つぶしや娯楽という枠には収まりません。むしろ衣食住に近いもの。
「たくさんいる中で、どうしてもこの人だった」
そんな出会いが、人生に幾つあるでしょうか。
偶然よりも必然に近い出会いだったのかもしれない
もし別の人だったら。
もし違う時期に出会っていたら。
もしあの作品やステージ、何気ない投稿に触れていなかったら。
今の自分は、もっと心細くて、もっと踏ん張れなかったかもしれません。
そう考えると、推しとの出会いを「たまたま起きた出来事」として片付けるのは、どこか違和感があります。
弱っていた時に必要な存在として現れ、欲しかった言葉や姿を届けてくれたからこそ、これほどまでに心を動かされた。
推しとの関係は、そんなふうにして形づくられていったのだと思います。
年末に思うこと:推しに出会えたことは、ひとつの幸運
誰かを推せるって、それだけですごく幸せなことです。
辛いことがあっても、楽しみがひとつあるだけで、人は前を向けます。
出会いが偶然か必然か、答えは出ないかもしれない。
でも、「自分にはこの人が必要だった」と胸を張って思えるなら、その出会いはもう十分すぎるほど意味がある。
どんな形であれ、あなたが推しに出会えたことは、
ちゃんとひとつの幸運だった――そう思っていい。
年末、少し立ち止まるこの時期に、
「推しに出会えた自分」を、そっと肯定してあげる記事になれば嬉しいです。
